公開日:2018.04.09
海の鼬
- 作品概要
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周防国の守護大名大内義隆に属する船武者、深津与五郎は急死した父代わって大三島攻めの軍に加わった。敵の三島衆は惣領の妹・鶴姫を大将に立てて激しく抗戦する。
華やいだような女の声が浜から聞こえた。笑い声だった。
草に寝転がったまま、深津与五郎は眼だけを動かした。日は暮れたが、あちこちで火が焚かれていて、浜辺は昼と同じように明るい。火のまわりには船武者たち……
華やいだような女の声が浜から聞こえた。笑い声だった。
草に寝転がったまま、深津与五郎は眼だけを動かした。日は暮れたが、あちこちで火が焚かれていて、浜辺は昼と同じように明るい。火のまわりには船武者たちが思い思いに集まり、酒を飲み、手を叩いて騒いでいる。そのなかでも目立って大きな人の輪から、また女の声がした。鼻にかかった声で男の悪ふざけをたしなめると、別の女が声をあげて笑った。いずれも若い女のようだった。
浜の騒ぎを冷ややかな目で眺めると、与五郎は視線を戻した。軽い苛立ちが胸に動いている。
戦陣の習俗に不馴れ、というわけではない。深津の家は軍船を砦代わりにして戦う船武者の家系である。春先に父が急死したため、与五郎は十六歳で跡を継いだ。三月前の夏の陣触れでは弓を取って船戦に加わった。
戦陣には物売りをはじめ、雑多な者たちが群がることも知っている。
なかでも与五郎を驚かせたのは、小袖の上に清らかな白い衣を着た女たちだ。唄や踊り、あるいは笛の音を売り物にするその集団が、遠国の神社に連なる漂泊の巫女であることを、与五郎は陣中で知った。彼女たちは、軍兵が陣を敷く場所をよく心得ているらしく、物売りの男たちよりもよほど早く戦陣に姿を現すのである。
今回の戦陣でも同じだった。季節は秋に移り、海風は夏の快さを失って、冷たく肌を切りつけることすらある。陣の場所も夏とは違う。それでも、波の穏やかな湾に碇を下ろし、浜に陣を整え終えると、待ち構えていたように女たちは闇に紛れて近寄ってきたのだった。
むやみに女たちを嫌う気持ちはない、とは思っている。人の群がる場所に推参して芸を売ることが女たちの生業であり、それを取り上げられれば舟を失った漁民のように困窮するであろうことも、おぼろげながら理解している。
――だが、あの笑いは癇に障る。
与五郎は親指の爪を噛んだ。音を立てて爪の端を噛み切ると、寒々として夜空に向けてぷっと吐き出した。
女たちはわざとらしく声を張って笑う。男の背や肩や腕に軽く手を触れる。どの女の仕草も浅ましいほど似通っている。ところが、船武者たちは女の媚態をむしろ進んで受け入れるのだ。火の傍に誘って、唄や踊りを促す。無邪気に手を叩く。そして、煮炊きの炎が尽きた後には、目を背けたくなるような醜態が始まるのである。
「おう、鼬与五はどこへいった」
浜辺の人だかりから、酒に濁った怒鳴り声が聞こえた。源助だ。
「日が暮れてから姿を見ておらん。おおかた酒に酔って、そのへんに寝転がっているのだろう。あいつはまだ若い」
年配の男がそう言うと、源助は鼻を鳴らし、手にした杯の中身を一息に飲んだ。
「十六にもなって、酒も飲めないのか。だらしない。与三郎殿とは大違いだ」
父の名が聞こえた。与五郎は闇の中で体を起こした。
「与三郎殿は大酒飲み。それに、矢を放てば鎧二領をまとめて貫き、敵の船に斬り込めば必ず首級をあげて帰ってきた。まさに豪傑だった。ところが、子の与五郎はどうだ。先走って敵船に飛び移ったはいいが、一太刀も浴びせられずに海に落ちた軟弱者だ」
思わず与五郎は立ち上がりかけた。太刀を鞘がらみに握って引き寄せ、炎に照らされた源助の酔眼を睨みつける。源助は頬に薄く笑いを張りつけ、周囲を見回している。聞こえるようにわざと声高に罵倒したのだ、と与五郎にも分かった。奴は喧嘩を吹っかけているのだ。
薪が弾ぜて炎が揺らめくと、源助の赤ら顔に濃い陰影が移ろった。それは、ほとんど醜悪といっていい表情だった。与五郎の中で切っ先のように尖っていた怒りが、急に錆びた。
太刀を脇に置くと、与五郎は再び草の上に寝転がる。そうするうちに錆びた怒りはぼろぼろと崩れて、腹の底で熱くわだかまる屈辱に取り込まれた。浜の方では源助がまだ口汚くわめいていたが、もう心の内には入ってこない。
鼬という蔑みにも、いくらかは耳が慣れた。だがもちろん心まで慣れることはなく、腹の底では屈辱がのたうち回るようだった。動くだけで、決して爆ぜることはない。
源助に罵倒を返し、殴りかかるのは容易い。しかし、それでは「鼬」の汚名は消えない。新たな嘲笑の種を蒔くだけだ。汚名は武功で返上するしかない、と与五郎はいつも通りの答えを胸に抱いて、夜空を見上げた。
緩慢な星の動きがもどかしく思えた。早く朝にならないか。夜が明ければ、軍船に乗り島を渡る。そこに、敵方の船団が待ち受けているのだ。敵味方の喚声が天を衝き、飛来する無数の矢が空を暗くする。物の焼ける臭い。あっけなく沈む軍船。
もしかすると、と予感が頭をかすめた。
明日の戦いで死ぬかもしれない。まったく無感動にそう思った。死ぬ、ともう一度思い浮かべてみた。矢傷を受ける、あるいは炮録の爆発に巻き込まれる。船上の斬り合いで首を打たれるかもしれないし、海に落ちたまま波に飲まれて沈むかもしれない。不気味なほど鎮まった心に、与五郎は己の死に様を描いてみる。そして、息を一つ吐いた。
かまうものか、と投げ捨てるように与五郎は思った。例え自身の死と引き換えであったとしても、武功をあげられればそれでいい。武功があれば、深津家の家名は立つ。母が路頭に迷うこともないし、いずれ親類から養子を取って家名は続くだろう。憂いはなにもないはずだった。
いきりたつ源助をなだめる女の声が聞こえた。かと思うと、女たちの囁き合う声がして、急に一人の女が唄い始めた。澄んだ声だったが、緊張しているのか声が震えている。下手な唄だ、と思った。すぐに手拍子が始まって、浜の宴はいっそう騒々しくなる。
父もあのような宴の輪に混じっていたのだろうか、と与五郎はぼんやりと考えた。
西の空の三日月はすでに地平に近づいて、赤く変わり始めていた。
父の与三郎はまだ三十七だった。源助が語った通りの男盛りの船武者で、隠居などまだ先のこと、与五郎を引き連れて軍船に乗り、船戦の何たるかをその身に叩き込んでから、時機をみて跡を譲る。そのように考えていたようだった。
それが春先の一夜、にわかに腹痛におそわれた。合戦で受けた矢を抜くときでさえうめき声すらあげなかった父が、悲鳴をあげてのたうち回ったのだから、よほどの激痛だったのだろう。与五郎は薬術の心得のある親類のところへ小者を走らせたが、大汗をかいて戻ったときにはすでに父は息を引き取っていた。
葬儀と、船大将への届け出を済ませ、与五郎は正式に深津の家を継いだ。
その慌ただしさも消えないうちに、陣触れが出た。船中を指揮する船頭の牧野作左衛門に率いられて、与五郎は初めて軍船に乗った。大きな船体に箱型の矢倉の組んだ船だ。与五郎ら船武者は矢倉の屋根にあたる矢倉板の上に乗り、船べりの楯板に身を隠しつつ敵に矢を射るのである。敵は、瀬戸内のほぼ中央にある大三島を根拠地とする三島衆だと聞いていた。
主君と仰ぐ周防国の守護大名大内義隆が、安芸国の支配を巡って山陰の尼子氏と陰に日向に争いを繰り返しているのは与五郎も知っていたが、今回の大三島攻めも安芸国争奪と大いに関わりがあるのだという。芸予諸島を根城にして瀬戸内に睨みをきかせる村上三家がこぞって尼子氏を支援する構えを見せたため、村上三家の領袖的存在である三島衆を攻めて、尼子氏を牽制するというのだ。
「大三島は潮読みの要地だ」
牧野は出陣前の船中でにそう訓示した。
「あの島を取れば、いかに村上海賊衆といえども、瀬戸内を自由に行き来するわけにはいかん。逆にわれらは不自由なく船を繰り出せる。そうすれば、尼子に対する優位は揺るぎないものになろう」
与五郎は弓弦の具合を確かめながら耳を傾けていたものの、話の中身ははるか上空を流れ去る風のようで実感が薄かった。ただ、勇猛で知られた村上海賊衆の名が強く胸に残った。
三つほど島を渡ると、そこに軍勢督促を受けた各地の海賊衆が続々と集まりつつあった。大小合わせて百隻を軽く越える数の軍船が、湾内を埋め尽くしている。見渡す間にも新たな海賊衆が浦に着き、船の数はまだまだ増える気配である。あまりの壮観に、与五郎は思わず弓を取り落としたほどだった。
軍船が集結すると、すぐに船団を組んで出発した。漕ぎ進むうちに、行く手を遮るように船団が現れた。掲げる旗印は三つ折敷き。三島衆の紋だ。
そのとき、はるか南の空に黒雲が小さく見えていた。
夏の沖合いに湧く雲は、破れて風を生むという。その雲が笠のような形だと大風が吹く。さらに色が黒ければ、暴風の兆しだという。船武者たちが風読みに用いる口伝である。
父から教わったその一言一句を、与五郎は諳じるように思い起こした。眺めるうちに、雲の塊は禍々しく膨れ上がっていく。雲の底が炭のように黒い。南風も吹き始めている。じきに合戦場に届いて、ひどい嵐になるはずだ。
「童、空のことなどいい。前を見ろ」
隣で弓を握る源助に首を掴まれ、ぐいと引き寄せられた。
「離せ」
反射的に源助の腕を振り払う。いくら初陣とはいえ、二十を少し出たばかりの源助に童呼ばわりされるいわれはない。だが源助は与五郎の態度を反抗と見なし、さらに声を荒げた。
「戦を知らん童が、生意気な」
固めた拳が与五郎の頬を打った。かっ、と頭に血が上り、源助の腕に組みつく。だが、仕返しにと繰り出した拳は、壮年の船武者に組み止められた。
「若僧どもが、戯れるな」
胸ぐらを掴まれて、軽々と楯板に叩きつけられた。源助も腹にひと蹴りをくらって、その場に崩れ落ちる。まるで飼い犬の折檻だ、と誰かが言い、弛緩した笑いがもれたが、壮年の船武者が睨みつけると黙り込んだ。
「始まるぞ」
壮年の船武者が船首の方を顎で示した。強い日差しを銀色に照り返す波間の向こう、敵の船はもう間近である。楯板に打ちつけられた痛みも忘れて、与五郎は弓を手に立ち上がった。敵の船もこちらと同じように、箱型の矢倉を組んだ軍船だ。矢倉の四方に楯板を巡らせてあるのも同じ。楯板の内側がきらきらと光るのは、刀槍を携えた船武者たちがひしめいているからだ。与五郎は震えが体の奥底から伝わってくるのを感じた。
船太鼓の調子が速くなる。それに合わせて水夫たちの掛け声も速くなり、船はいっそう左右に揺れた。敵の船団はもう指呼の距離である。いつしか風は水気を含み、白く波立つほどの強さで吹き始めた。父の口伝通りだ、と与五郎は思った。雲が破れようとしているのだ。
牧野がさらに水夫たちをせかす。周りの大内勢の船もさらに船足を上げた。見たところ、三島勢はこちらの半分にも満たない小勢である。一息に押し込んで、嵐が来る前に蹴散らすべきだった。海が荒れると、船を前に進めることすらままならない。
距離が迫り、三島勢の軍船が先に矢を放った。応じて、大内勢も一斉に矢を射返す。二度、三度と矢を交わすうちに、迎え撃つ三島勢に地の利が現れ始めた。敵は三島の海の潮流れを知り尽くしていた。大内勢も近在の漁師たちを水先案内に雇っていたが、刻々と移り変わる潮を読むことに関しては、敵の方が一枚上手だった。三島の船の舵さばきは巧みで、翻弄されるように大内勢は陣形を乱し始めた。知らぬ間に太陽は分厚い黒雲に隠されて、戦場は夕暮れのように暗くなった。
与五郎は凄まじい矢戦のただ中にいた。
左から迫った敵船が無数の矢を放った。矢尻が雨となって降り注ぎ、そこかしこで悲鳴があがる。顔に矢を食らった船武者が矢倉板に倒れ込む。
「ひるむな。射返せ」
牧野の大声に励まされて、与五郎も立ち上がって弓を構えた。敵船の武者の一人に狙いを定める。敵の黒目がぎろりと動き、こちらを向いた。
夢中で弦を弾くと、矢は敵の左胸に吸い込まれた。
狙いは正確だった。しかし弓勢が弱い。矢は鎧に遮られて、「ぐッ」という苦しげなうめきを引き出しただけだった。再び動いた黒目が与五郎を捉えて、たちまち矢が射返される。あわてて楯板の陰に体を潜める。男の矢は楯板の端を砕き、さらに勢い余って矢倉板に突き刺さった。目の覚めるような強弓だった。
「与五郎、貴様なんだ、その腰の弱い弓は」
矢を放っていた源助が叩きつけるように言った。
「親父殿の弓はどうした。あの強弓で射れば、鎧を貫くことなどわけもなかろうが」
与五郎は唇を引き結んだ。
「父の弓は……固すぎて手に余る」
源助の眼が吊り上がった。
「軟弱者が。武芸の鍛錬を怠けていたのか」
違う、と与五郎は歯噛みをした。
与五郎は生来、非力な質だった。決して小柄ではないのだが、手も足も少年のままの細さだ。父は筋肉が小山のように盛り上がった大男だったので、与五郎の体つきは母に似たのだろう。「合戦は何につけても膂力が物を言う。もっと肉を付けろ」と、父には事あるごとに言い聞かせられ、それに応えて人並み以上に木太刀を振り、弓を引いたのだが、細身の体は引き締まるばかりで、太くはならなかった。
武芸が下手というわけではない。実際に与五郎は太刀も弓も巧みに遣う。弓をとって父と的を競えば与五郎が勝るほどだったし、木太刀をとって相対すれば三本に一本は与五郎が打ち込んだ。しかし、やはり剛力というにはほど遠く、甲冑を着込んだ武者を相手にすることを考えれば、巧みさに頼った与五郎の武芸は心許ない。
不意に爆発音が響き渡った。
右隣を走っていた味方の軍船だ。続けざまに三度も轟音がして、軍船の腹が破れた。裂けた船体から盛んに炎が吹き上がった。さらに爆発が続いて、軍船は燃え上がりながら真っ二つに折れた。
巻き起こった黒煙の向こうから、三島の軍船が滑り出た。小船である。櫓の数は二十ほど。乗り込んだ船武者も少ない。その手に人の頭ほどの大きさの玉があるのを、与五郎は見た。炮録船だ。
炮録とは、陶製の玉の中に火薬を詰めた爆弾である。これを船足の速い小船に積み、敵船に一気に漕ぎ寄せて投げ入れるのだ。このような炮録船を村上海賊は巧みに使いこなす、と与五郎は父から聞いていた。まず矢船が矢で敵を射すくめ、居着いたところへ炮録船が一撃を加え、仕上げに武者船を繰り出して敵の首を取る。村上海賊独特の三段構えの戦法である。
「近づけるな。炮録を投げ込まれるぞ」
牧野が叫ぶと、船武者たちは一斉に矢を放った。だが、敵は船べりに立てた楯板に身を隠した。船足は緩まない。間近まで迫ったとき、楯板の向こうの敵が立ち上がった。筋肉のたくましさが鎧越しに分かる、屈強な船武者だった。右手には炮録がある。火縄からは薄く煙が立っていた。
与五郎が矢を放った。矢は正確に敵の右手を刺した。だが、敵はこぼれ落ちた炮録を左手で素早くすくい取った。与五郎が次の矢をまさぐる。つがえて、弦を引く。
二の矢は鎧の胸板で止まった。敵は体ごと回すようにして炮録を投げた。
炮録は矢倉板の上を転がり、いきなり爆発した。何人かが巻き込まれた。与五郎も爆風をくらって、楯板まで吹き飛ばされた。目を開けると、矢倉板には人が通れるほどの穴が開き、その周りで火が燃え始めていた。
貴様、と源助が怒鳴った。
「もういい。その役立たずの弓を捨てて、火でも消せ」
言い捨てて、源助は矢櫃から新たな矢を乱暴に取り出した。
顔の半面を焼かれた船武者が矢倉板に転がってうめいている。赤黒くただれた唇が細かく震えるのに、与五郎の目は吸い寄せられた。
牧野の船に打撃を与えた炮録船は船足を落とすことなく通り過ぎた。だがすぐに次の小舟が迫る。強風で波が立ち始めているのに、三島衆の船の進退は滑らかだった。それに比べて、味方の船は波に負けて、右へ左へとあおられる。
「やつらにしてみれば、荒れ方まで知り尽くした故郷の海、ということか」
思わず牧野がうなるほど、三島衆の船の梶さばきは巧みだった。
いまや牧野らの船が属する左翼の陣は三島勢の船に柔らかく浸食されて、隊列も何もなく個々の船がひたすら目の前の敵を追うしかないというありさまだった。多勢を揃えた利をいかすこともできず、じりじりと時だけが過ぎていく。まずい合戦になっていた。
大将船だ、という叫びがあがったのはそのときである。弾かれたように与五郎は顔を上げた。
数隻の船を従えた大船が猛然と進んでいる。一文字に左翼を切り裂いて、大内の本陣に襲いかかる構えとみえた。「いかん」と牧野が血相を変えた。左翼は陣形を失って、クラゲのように柔らかい。捨て身の刃で貫かれたならば、あっさりと破れるだろう。
「阻め。船首ごとやつらに体当たりするのだ」
牧野が声を振り絞る。どのような場合であっても敵船に船首を付けて斬り込むのは分が悪い、というのも船武者の口伝だが、敵はもう目の前に迫っていた。突破を許せば、背後にある本陣に危機が迫る。
水夫たちが掛け声を揃えた。船太鼓が早調子を刻み、船足がぐんと上がる。間に合うか。牧野が腕を振り上げて水夫たちを急かす。
だが、三島の船は速い。
乗っている潮が速いのだ。どこかの瀬戸から流れ出して海の上を一筋に走る、細長い道のような速潮を、三島の船は捉えていた。牧野の懸命の指図も虚しい。大将船が目前を通り過ぎようとしていた。
与五郎は弓から手を放した。いまさら矢を放ったところで、大船が足を止めるはずもない。ならばどうするか。衝動が体を突き動かし、与五郎は足を踏み出した。
「貴様、どこへ行くつもりだ」
源助が肩を押さえつける。
「弓が使えんなら、せめて火を消せ。そう言っただろうが」
「敵の大将船に飛び移る」
何を、と気色ばみ、源助は彼我の船を見比べた。
「気でも狂ったか。飛び越えられる距離ではない」
「いや、できる」
与五郎は敵船を睨んだ。
剛力はないが、その代わり身の軽さには自信がある。遠目の間合いから駆け込み、跳躍して振り下ろす木太刀は意外なほどの伸びがあり、亡き父すら閉口させたのだ。ただ跳ぶことのみに集中すれば、あるいは。
「問答する暇はない」
肩を押さえた手を振り払うと、与五郎は駆けた。奇妙な高揚が体の隅々を照らし、力がみなぎっていた。唖然とする味方たちをすり抜けながら、与五郎は敵船の大将旗だけを見ていた。
「待て、与五郎」
牧野の制止が耳を打った。船頭の制止だ。従わなければ罪に問われることもある。だが、そう思う間にも敵船は遠ざかる。
与五郎は逡巡を押し切った。矢倉の端から飛び降り、鋭く切り上がった船首まで走ると、体を沈み込ませる。舳先を蹴りつけ、跳んだ。
そのとき目の前が白く染まった。雷光だ。
瞬きをする間に、視界に色が戻る。敵船の矢倉が眼前に迫っていた。空を割る轟音の中で与五郎が手を伸ばすと、指先が船べりの楯板にかかった。腕に力を入れて体を引き上げる。
矢倉の上には無数の船武者がひしめいていた。弓を持つのは半数ほどで、残りの武者は太刀や長槍を携えて、すぐにも斬り込む構えである。大将は真ん中だ。数人の船武者に守られて、前を見ている。
与五郎は身を乗り出した。敵だ、と叫びがあがった。それが始まりの合図となった。
止まることなく船上へと転がり込む。勢いのまま跳ね起きると、いきなり白刃が横薙ぎに襲った。太刀の柄に手をかけることもできず、矢倉板を這うようにしてかわす。
うなりをあげて槍が襲ってきた。頭上では太刀が閃いた。身をかがめたが、何かに肩を斬られた。浅い、と思いながら走る。ひたすら動き回るしかない。足を止めれば、そこで終わる。
「小僧、ここまでだ」
大柄な男が両腕を広げて組み付きにかかった。与五郎は船べりの楯板に手を掛けた。矢倉板を強く蹴って、楯板の上に躍り上がった。風雨を受けて船は大きく揺れ、与五郎は危うく足を踏み外しかけたが、細い足場の上で辛うじて均衡を保った。
鋭い音が聞こえた。弓弦の音だと気付いて、与五郎は迷わず前に踏み出す。背のすぐ後ろを、何本もの矢がうなりを生じながら流れ去った。荒れた暗い海を見ないように、与五郎は先を目指した。わッ、と歓声をあげたのは、大将船の後方を通り抜けた味方の船のようだった。
「小癪ッ」
一歩先の楯板を船武者が蹴りつけた。楯板が大きく揺れる。行き場を失った与五郎は楯板から飛び、宙で蹴り足を伸ばして船武者の鼻面を砕いた。崩れ落ちる船武者の体を踏み越して、矢倉板に降りた。
その先に、大将がいた。
若い男だった。歳にすれば、二十五、六といったところだろうか。色彩に乏しい質実な造りの鎧兜に身を包み、薄く髭の生えた顔で、がむしゃらに船上を駆け抜けた与五郎を見返している。その口元がわずかに歪んだ。
「一人か」
と男は言った。愚弄か、賞賛か。見極めようとする間に、男の表情は進み出た供回りの武者の壁に隠された。背後からも敵の殺到する気配がする。与五郎は再び白刃の輪に閉じ込められた。
周囲に目を走らせる。どこにも隙間はない。じりりと白刃の輪が狭まる。
不意に風が大きく鳴った。かと思うと、船が大きく傾いた。大波が船の腹にぶち当たったらしい。向こう側の楯板に波飛沫が激しく噛みついている。
与五郎は跳ねるように走った。正面の供回りの男が揺れに負けて、足を踏み変えたのだ。太刀構えが緩んだ、そのわずかな隙間に、与五郎は自分の体をねじ込んだ。怒号があがる間に、白刃の輪を抜け出した。
大将首が手の届くところにあった。
与五郎は名乗りを上げようとした。だが実際には、舌がもつれて獣じみた雄叫びになっただけだった。大将の男は太刀を構えたまま、口角をわずかに笑ませたようだった。
数歩に迫ったとき、男は半歩踏み出すように足を送った。肩口に構えた太刀が鈍く光った。斬られる、と思ったが、もはや止まることもできず、前に倒れるようにして身を沈めた。冷たい風のようなものが右耳の上のあたりを通り過ぎ、額当てが弾け飛んだ。
そのまま肩から突っ込んだ。懐に入ったと感じたとき、逆手にした短刀を振り上げた。男が両手で組み止める。組み打ちに移って用済みになった太刀を、男は素早く捨てていた。
短刀は届かなかったものの、体ごとぶつかった与五郎の勢いが勝った。男はたたらを踏んだ。渾身の力を込めた。男は与五郎の突進を支えかねて、足をもつれさせて楯板まで押し込められた。
そのとき、さらに大きな波が船を襲った。
男の肩越しに見えていた暗い海が、急に近づいた。船体がきしみをあげて、大きく傾いている。男の体が滑った。そう感じた直後、与五郎の体から重みが消えた。男と組み合った体勢のまま、あっけなく海へと投げ出された。
海中へ沈むと音が消えた。闇も深い。水は激しく動き回っていて、そのうちに手首がふっと軽くなった。男の手が離れたのだ。与五郎も男の体を放り出した。潮に流されながらも、重い闇をかき分けて光を追うと、ようやく海面に達した。
波を割って頭を出す。海の上は大雨だった。風が狂奔する馬のようにそこらを走り回っている。大将船は大きく傾いたことで櫓の調子を乱したらしく、船足を失って味方の船に取り付かれていた。安堵したのもつかの間、与五郎はあたりをさかんに見回した。大将の男はついに浮いてこなかった。
嵐が過ぎ去る頃には、大勢は決していた。
三島勢の大将船は牧野作左衛門の軍船の活躍で焼け落ち、大将の大祝安房は与五郎とともに海に落ちたまま生死不明。残った三島勢は散り散りに合戦場を逃れた。敵の抵抗は思いの外強固だったが、全体としては倍近い陣容を整えた大内勢が順当に勝ちを得た。
与五郎は誰よりも早く敵の、しかも大将船に斬り込んだ。敵船一番乗りの功には大きな名誉をもって報いるのが、古くからの船武者の習いである。敵船の白刃の嵐へ真っ先に飛び込む、その並外れた胆力を称えるのである。まして斬り込んだ勢いのまま、大将に組み討ちをしかけたとなれば、船大将から直々に賞賛されても不思議ではない。
与五郎自身にも、手柄を立てたという自負があった。波の冷たさに頭が冷えてくると、船上での死闘がいっそう生々しく甦った。体のあちこちに切り傷があって、塩水がひどく沁みたが、その程度で済んだのは奇跡だった。
これで深津の家は安泰だ、と思った。豪傑だった父の跡を継いだ重みが、このときはむしろ心地よかった。軟弱者呼ばわりされることはもうない。深津の若当主は先代に劣らぬ船武者、と軍船の誰もが言うだろう。源助の軽侮もすぐに改まるに違いない。
与五郎の期待は、しかし軍船に引き上げられてみると、あっけなく砕かれた。
「深津与五郎の行いは勝手働きだ」
厳しく決めつけたのは、船大将から各船に派遣された検使の侍だった。船武者の働きを公平に検分し、船大将に功を言上するのが役目である。検使役の目には、与五郎の振る舞いは軍船の秩序を乱す行為に見えたのだ。
軍船では船頭の指図が何よりの重みを持つ。たとえ左舷の射手が敵に射すくめられて不利に陥っても、船頭の指示なしに右舷の射手が加勢してはならない。敵船への斬り込みも、倒した敵武者の首取りも、すべて船頭の指図を待つ。指図に反した勝手働きは陸の上の合戦とは比べものにならないほど厳しい。皆がばらばらに動いたのでは、船が沈んでしまうことさえあるのだ。
しかし、と言葉を返したのは牧野だ。
「与五郎は命を捨てて大将船に飛び移り、敵を大いに乱しました。此奴の働きがなければ大将船の突破を許し、本陣を攻められたかもしれません」
「異なことを言う」
検使の侍は首を傾げた。
「待て、と指図したのはぬしではないか。それを無視して斬り込んだ。勝手働きは明白だ。それに、左翼が抜かれたところで、敵は所詮寡兵だ。分厚い本陣の船団に遮られて、立ち往生するのがせいぜいであろう。明らかな武功とまでは言えまい」
俯瞰した物言いで突っぱねる。牧野は声を荒げてさらに言い募った。
「それでも、与五郎は敵の大将に組み打ちをしかけております。敵の船が傾いたときに、与五郎と敵の大将が組み合ったまま海に落ちるのを、しかと見ました」
「勝手働きの手柄は認めぬ、というのが古来の作法。まして、大将の首も死体もなく生死も不明では、手柄があったかも定かではない」
牧野はさらに反駁しかけたが、検使の侍は手を挙げて制した。
「何を言おうとも、勝手働きの裁定は動かぬ。それから先の罰の軽重は船大将、小原中務丞様の一存。ここで議論してどうなるものではない」
そこまで言われては、牧野も黙るしかなかった。
力を使い果たし、床板に這いつくばっていた与五郎は縄で縛られ、船倉の隅に転がされた。船は大三島へと進み、そのまま島攻めに移った。罪人の与五郎は島の合戦に加わることを許されず、大内勢の旗色が悪くなり、島から追い落とされるまで、暗く蒸し暑い船倉で時を過ごした。
島での戦いのありさまは船を降りてから噂で聞いたに過ぎない。
上陸した大内勢は意気盛んだったらしい。船戦で多少の兵を失ったとはいえ、多勢は保ったまま。かたや三島勢はもとからの寡兵をさらに減らしている。加えて船戦の指揮を執っていた陣代の大祝安房は行方不明だ。
三島衆の惣領家は三島神社の神職を世襲し、その職名「大祝」を家名とする一族である。当代も長兄の安舎が大祝職を務め、大内勢の襲来に対しては弟の安房を陣代に立てた。兵馬を遠ざける神職らしいやり方である。その長兄が、陣代を失ったからといって自らが戦陣に立つとも思えない。惣領家に他に目立った男子はおらず、もはや兵を指図する者がいないのである。島を落とすのに手はかかるまい、と牧野ですら楽観していたという。
ところが、またしても三島勢は強固に抵抗した。
敵は草深い山野から急に現れた。あわてる大内勢をさんざんに斬って回り、また草の中に消えた。先陣が襲われたかと思うと、後陣から火の手が上がった。大内勢は物見を放って敵の居場所を探ろうとしたが、敵は兵の少なさを逆手にとって山谷を動き回っているようで、足取りは容易には掴めなかった。
三島勢を率いているのは女だ、と言う者がいた。ある夜に襲いかかってきた三島勢の一団の先頭に、鎧姿の女がいたのだ。女は自らも薙刀を振るって戦いながら、兵を指図して陣に火を放った。
数日が過ぎるうちに、女の正体が少しずつ知れた。陣代の大祝安房の下には妹がいるらしく、指揮を引き継いだのはこの妹のようだった。
名は鶴。兵の先頭に立って自ら血戦するほどであるから勇ましい姫なのだろうが、その素性は依然として詳らかにならない。姫でありながら男として育てられて武芸も鍛錬し、ついに鎧一式を与えられたとか、あるいは三島神社の神域で巫女にかしずかれて育ち、長じて神通力を得たとか、怪しげな噂ばかりが流れた。
たかが女ではないか、と侮る者は一人もいなかった。敵は大軍を相手にしながら寡兵を城に籠めず、山野に隠れて四方から襲いかかったのである。戦ずれした男に考えつくことではない。誰もが姿を見せずに襲いかかる敵をおそれていた。
五日も過ぎると、大内勢の士気は消沈し、風が草を揺らしただけでも怯えるほどのありさまだった。行軍は遅々として進まない。戸惑ううちに、悪い報せが入った。伊予衆が三島衆を助けるべく、島へ向かっているのだという。
戦機を逸したと悟ったのか、船大将の決断は早かった。あるいはこの時点ですでに、もう一度大三島に攻め寄せる算段をつけていたのかもしれない。一夜のうちに兵を船に乗せると、周防へと軍を返したのだった。
与五郎には何の沙汰も下らなかった。
検使の侍があそこまで騒いだのだ。勝手働きの罪は軽くないはずだった。悪くすると放免されるかもしれない、と母と語り合い、家で身構える日々が続いた。船頭に問い合わせたほうが良いだろうか、と一度ならず母に相談したが、母は首を振り、このような時はひたすら身を慎むよりほかにない、と言うばかりだった。
やがて夏が終わり、秋も深まった頃に、再び陣触れが出た。そこには軍船の射手として深津与五郎の名前もあった。敗戦の混乱でうやむやになったのだ、とか、初陣ということで多目に見られたのだ、とか、それでも敵の大将船を止める働きをしたのには違いないから功罪が勘案されたのだ、とかさまざまな噂が衆の中で立った。噂の端には与五郎の軽率さを責める言葉が連なった。囁き合いはそのうち与五郎に確たる咎めがない不満に変わり、誰からともなく「鼬」と蔑むようになった。
「あの戦い振りを見たか。敵船に飛び移ったはいいが太刀を抜くことすらできず、ちょろちょろと逃げ回るだけ。挙げ句に敵に追われて、楯板の上を器用に走る。俺は、海の上で鼬を見たのは初めてだったぜ」
軍船の集結地へ向かう船上で、源助などは誰はばかることなく、声高に語る。衆の者はさすがに源助の悪口に付き合ったりはしないが、たしなめることもしない。与五郎は楯板に背を預けて、空を見上げた。青さが滴り落ちるかと思うほどの晴天だ。父の口伝を引き出すまでもなく、二、三日は風の穏やかな日が続くだろうと思われた。
不意に与五郎は体を起こした。
浜では酒盛りが続いている。女の唄は終わったようで、今は別の女が踊っていた。
与五郎は後ろを振り返った。浜の反対側は緩やかな丘になっていて、半ばから草むらが茂り、そのすぐ後ろから雑木林が始まっていた。月はすでに沈んでいる。しかし、浜の焚き火の明かりがほんのわずかに滑るように草むらに届いて、かろうじて輪郭だけが見えている。
――何の気配だったのか。
思いながら、太刀を提げて立ち上がる。草が揺れる音を聞いた気がした。風が吹いただけかもしれないし、獣が茂みの中へ飛び込んだのかもしれない。しかとは分からない。
茂みのひとつひとつを眺めながら、息を殺して待った。風ならば、また同じように草が揺れるはず。獣ならば、再び茂みの外へと動くだろう。だが、あたりには女たちの例の高笑いと宴のさざめきが響くだけだった。与五郎は茂みを見つめたまま太刀の鯉口を切った。
何者かが茂みの陰で息を殺しているのだ、と思った。相手もこちらの気配に気付いている。だから、動けないのだ。潜んでいるのが三島方の物見であれば、逃すわけにはいかない。音をたてないようにゆっくりと太刀を抜く。身構えて茂みににじり寄りながら、与五郎は全身で敵の気配を探った。
「お許しください」
茂みから漏れ出た声に、与五郎は足を止めた。若い女の声だ。太刀を握ったまま戸惑っていると、女は「どうか」とかすれた声で言った。
「誰だ? そこで何をしている」
低く問いかけると、茂みの中で女が小さく喉を鳴らした。お許しください、お願いです、と繰り返すうちに、女の声は湿りを帯び、ついには嗚咽に変わった。
「お、おい」
忍び泣く声が胸を締め付ける。少し間があってから与五郎は太刀を抜き身にしていたことに気付き、あわてて鞘に戻した。
「落ち着け。悪さをしているわけでなければ、むやみに危害を加えたりはしない」
茂みの近くに身を寄せて与五郎が言うと、女はようやく泣き声をひそめた。改めて誰何すると、時折しゃくり上げながらも、女は問いにひとつひとつ答え始めた。
「名は、ふみと申します。いま浜でお侍様方のお相手している巫女衆の者です」
「巫女の? ならば、どうしてここに隠れている?」
「それは……」
ふみが口ごもった。どうした、と重ねと問うと、ためらうような空白を挟んでから、ようやく口を開いた。
「……こわく、なってしまいました」
「怖い?」
「町衆の前でなら何度か芸を披露したことはあります。けれども、戦陣への推参は始めてのことで。町衆も侍衆も何も変わりない、と姉さまたちは言うのですが、いざ浜で焚き火をしているお侍様方を見ると、その、こ、怖くなってしまって……」
いまにも震え出しそうな声で、ふみは続けた。
「姉さまたちはどんどん先に行ってしまうし、一人残されてしまうと、とてもお侍様の前に出る勇気がなくなってしまって。それで、誰にも見つからないように、ここに隠れていました」
与五郎はうっすらと生えた顎髭を指で触りながら聞いていた。
お侍様、とはいかにも十把一絡げな言い方で、その中には昨日召抱えられたばかりの野盗あがりの男もいるし、村での乱取り目当てに陣にくっついてくる無頼もいる。こういった輩は物売り相手に太刀を見せながら我意を通すのを厭わない。せいぜい懐剣を持つ程度の女が恐怖に身を震わせるのも無理はないだろう。
浜の方からまた女の高笑いが聞こえた。思わせぶりに笑いつつも、あの女たちは内心に怖れを秘めているのかも知れない。大層なものだ。気に食わぬことがあればすぐに太刀を抜く者たちが集う戦陣へ、女たちは一面で死を覚悟しながら現れるのだ。そうすると巫女たちのあの媚びた笑いは、身の内の恐怖に抗うための技なのか。与五郎は髭をいじっていた手を下ろし、茂みを見つめた。
ふみ、と名乗ったこの女は未熟な巫女なのだろう。媚びて笑う技を知らず、恐怖を逃がすこともできない。だが、未熟という思いは鋭く与五郎自身に跳ね返った。勝手働きの謗りを受け、宴から一人はぐれた己こそ、未熟そのものではないか。
太刀の鯉口はすでに締めてある。その太刀を杖のように立てると、与五郎は茂みの脇にしゃがみ込んだ。中の暗がりへと顔をいっそう寄せる。
「まだ、怖いか」
ふみは当惑したように押し黙っている。服に焚き染めているらしい香木のような匂いが、草木の間からかすかに漂った。与五郎は小さく息を吐いた。
「おれの名は深津与五郎」
海から吹きつけた風に乗って、浜辺の喧噪がいっそう大きく聞こえた。
「深津の家は船頭の牧野様に永きにわたって仕えた、生粋の船武者の家だ。昨日、今日に雇われた野盗上がりとは違う。春に死んだ父も、牧野様から何度もお褒めいただいた立派な船武者だった。おれは、その父の跡を継いだのだ」
鞘を握る与五郎の手に力がこもった。
「父に比べるには、おれは不出来な船武者だ。だから、手柄が要る。是が非でも、だ。手柄の他には何も望むものはない。何もいらない。手柄だけだ。その一心で、いまおれはここにいる。いや……」
空いた右手で髪をくしゃりとやる。
「くどくどと喋り過ぎた。つまりな、女子供をいじめたり、物を掠めたり、そういったことはおれの頭の中にない。だから、怖がらずに出てくればいい」
海風はまだ止まない。額当ての端が首筋で揺れている。夜に海から風が吹くとは珍しい、と思ったとき、茂みが揺れた。
出てきたのは、声を聞いた通りの若い女だった。
歳にすれば、与五郎と同じか、幾つか下かもしれない。肌は日に焼けて浅黒く、そのせいで切れ長の目が夜の暗さにも目立った。与五郎が見返すと、恥ずかしげな色が移ろって、すぐに目を伏せた。与五郎も目を逸らし、右手を首の後ろに当てた。姿が見えなかったとはいえ、このような弱々しい女に太刀を向けようとしていたのが、いかにも居心地悪いことに思えた。
「おい、そこでなにをしている」
怒鳴り声が夜気を震わせた。源助だった。荒々しい足取りで丘を登ってくる。足音に威されたように、ふみが与五郎の背に身を隠した。
「ほう」
源助が片頬を吊り上げた。
「鼬与五が。武芸は怠けても、女を漁るのは熱心らしいな」
言いながら、唇を拭う。顔にははっきりと酔いが浮き出ていて、闇に透かしてもなお赤い。
「与三郎殿も、あの世で嘆いているだろうよ。跡取り息子は軟弱で、おまけに船頭の指図も聞けん馬鹿者だ。おまえの取り得といえば、累代の船武者という家の名だけではないか」
腹の底の屈辱が熾火に息を吹き掛けたように熱くなった。構うな、と与五郎は自身に言い聞かせた。それでも熱は体中に広がって、手の指が震えた。息をするたびに、喉が熱くなった。
「だがその家系も、おまえの代で終わりだ」
それを聞いたとき、眼の奥に強い痛みが走った。獣じみた気分が一瞬で心を覆い尽くし、右手が自然に動いて太刀の柄を握り込んだ。「おお」と応じた源助が、先に太刀を半ばまで鞘走らせた。
「鼬の武芸がどれほど通じるか、試してみるか。来い」
源助が太刀を抜いた。切っ先が冷たく与五郎を照らす。合戦を前に味方同士で斬り合うなど言語道断だった。叱責だけで済むはずがない。だが分別くさい思いは胸の奥で弱々しく行き来するだけで、激しい怒りを阻むことはない。もう手遅れだと思った。与五郎も抜き合わせようとした。
だが、鯉口を切る寸前のところで、与五郎は手を止めた。袴の腰紐を掴んだ手が細かく震えているのに気付いたのである。
布地越しに、ふみの怯えが伝わって来るような気がした。
ふみは与五郎の言葉を信じて茂みから姿を現したのだ。にも関わらず血気に逸り、ふみを危険に巻き込むことも厭わずに太刀を抜こうとするとはどういう了見なのだ。そう思うと、心は急速に醒めた。源助の切っ先は与五郎を捉えたままだ。その向こうに歪んだ酔顔がある。醜悪な顔だ、と与五郎は心のうちで毒づいた。
どうした、来い、と源助が言った。与五郎は無言で柄から手を放した。それでも源助は執拗に何事か罵りながら、切っ先を眼前に押し出してきた。あくまで斬り合うつもりなのだ。勝手働きがそれほどまでに憎かったか、と思ったが、それだけではないだろう。この男の心の奥深いところで渦巻いている憎悪が、酒の酔いに任せて吹き出しているように感じた。
「やはり貴様は太刀すら抜けんのか。夏の合戦と同じだ」
またも源助は心を刺すようなことを言ったが、それでかえって冷静さを取り戻した。二度と船頭に背くようなことがあってはならない。
「太刀を収めろ、源助」
「何をいまさら。刃を見て怖じたか、鼬与五が。それでも武人か」
「武人の太刀は敵を討つためのものだ」
切っ先から目を離し、刺すような視線を源助に送る。
「仲間内の喧嘩で使うようなものではない。まして合戦を前に味方同士で血を流すなど、牧野様からどのようなお咎めを受けるかわからんぞ」
船頭の名を聞いて、源助はわずかに鼻白んだようだった。太刀を振り上げたまま、浜の酒盛りの様子をうかがうように目を泳がせる。その隙に、与五郎は背を向けた。
源助が何か喚いたが、構わずにふみの背を押した。歩き始めながら、耳だけは背後に残す。もし源助が襲いかかってくるような気配があれば、せめてこの女だけは守らなくてはならない。右手で太刀の柄を探り、空いた左手でふみの肩を強く引き寄せた。ふみは逆らわず、与五郎に身を寄せた。
「腰抜けが」
源助の罵りが背を叩いた。が、強いて斬りかかってくるでもなく、源助の気配は動かなかった。与五郎は軽く息を吐きながら歩を進めた。
それにしても、なぜあれほど憎しみを向けるのか。当てこするような悪口を言い、皆の前で公然と罵り、今日はついに太刀を抜いた。嫌われるのは仕方ないとしても、度が過ぎているのではないか。
丘を登りながら、与五郎は奇妙な噂を思い返している。源助は武士の出自ではなく、峠を根城に野盗を働く野伏せりの一味だったという。
牧野は数年前に船大将から新しい船を与えられ、船武者を積み増しする必要に迫られた。だが、召し抱える船武者に目途が立たず、やむなく陸の武士を何人か引き入れた。源助はそのうちの一人である。
噂の真偽は分からない。だが衆のうちにはどことなく源助を軽んじる空気がある。夏の合戦に加わっただけでも感じ取れたほどの、目に見えない壁がある。その壁に囲まれることで、源助はさらに粗暴になっているように与五郎には見えた。
考えながら歩くうちに林の中へ入り、あたりは星明かりも届かない闇に包まれた。夜鳥の鳴く声がどこからか聞こえてくる。
それまで歩調を合わせて歩いていたふみが、不意に肩を震わせた。それで、与五郎は細い肩にいまだに手を回していたことに気付いた。まるで熱いものにでも触れたかのように手を放す。肩の震えは瞬く間に全身に広がり、ふみは顔を伏せた。与五郎は二歩も退いた。
「すまん……」
闇に遮られてよくは見えなかったが、おそらく青白い顔をしているに違いない。ふみは震えを押さえ込もうとするかのように、両腕を自身で抱いていた。
「怖い思いをさせてしまった。だが、抱き寄せたのは用心のためだ。よからぬことをしようとしたのではない」
「分かって、います」
切れ切れに言って、ふみは忙しく足踏みをした。ちらと目を上げて「申し訳ありません」と言ったが、すぐにまた震えに負けて歯を噛み締める。
林に入ったところで体を離せばよかったのだ。そうすればふみに無用の怯えを抱かせることもなかった。思いながら、拳を握った。愚か者め。胸のうちで自身を罵った。
ふみが大きく息を吐いた。それでいくらか震えが収まったらしく、やや落ち着きを取り戻した声で、「とりあえず、林を出ませんか。こう暗くては……」と言った。
与五郎はうなずいた。浜に戻るか、と問うと、いまさら浜に降りて宴に混じったところで多くの人の目を引くだけだから、今日のところはもう仕方ないので後で姉さまたちに詫びるしかない、とふみは答えた。自然に、二人の足は山側へ向かった。
「何か話をして頂けませんか」
しばらく闇の中を進んだところで、右後ろを歩くふみが言った。闇と、無言の静けさに耐えかねたようだった。
「何でも構いません。合戦の手柄話でも」
「手柄など何もない」
藪をかき分けながら与五郎は無造作に言った。
「でも、さきほどの酔ったお侍様が与五郎様を罵る口調には、妬みがありましたわ」
足元に絡む蔦を押し退けていた手を、与五郎は止めた。
「妬み?」
「ええ。男の方があのように女子のような執拗な言い方をされるときは、決まって女子にも劣らぬほどの嫉妬を抱いています。察するに、年長のあのお侍様を凌ぐほどの目覚ましい活躍があったのでしょう?」
酔いと憎しみで赤黒く歪んだ源助の顔を思い出してみた。妬みだと言われても、にわかには腑に落ちない。夏の合戦では失態を犯しただけで、手柄もなにもない。そもそも、初陣をしたばかりの若輩を妬んだところでどうなるものか。
ふみはおれのことを知らないのだ、と思った。生粋の船武者の家の生まれ、などと立派な名乗りをしたから、さぞかし勇猛な侍だと思ったに違いない。鼬の名がどのような意味を含んでいるかも、ふみは知らない。
蔦をやや乱暴に払いのけると、与五郎は一息に藪を抜けた。そしておもむろに口を開いた。
「おれは夏の合戦で初陣したが、そのときに不手際があった。さっきの、無頼のような口をきいた男が言っていただろう。船頭の制止に逆らって単身で大将船に斬り込んで、敵の大将に組み打ちを仕掛けた挙げ句、組み合ったまま海に落ちた」
ふみは何も口に出さない。ただ強い視線が背中に向けられているのを感じた。驚いているのか、それとも憐れんでいるのか。そう思うと心が小さく痛んだ。振り返ることなく、与五郎は話を続けた。
「幸い、罪には問われなかった。だが、張り付いた汚名は消えない。勝手働きの禁もわきまえぬ、未熟な船武者、とな。だから、人並み以上の手柄がいるのだ」
相変わらず、ふみは与五郎の背を凝視しているようだった。射込むように強い。しかし与五郎が大きな岩を左に回って進んだとき、視線はふっと弱くなり、ふみがつぶやくように言った。
「島々を回ったときの噂で聞きました」
風に消えそうな声だった。与五郎は耳を澄ませた。
「秋口の頃、ある島の浜にお侍様の遺体が流れ着いたそうでございます。身につけていたものから、三島衆の陣代様であることはすぐに知れて、浜は大騒ぎになったそうですが、不思議なことにその遺体は甲冑を身につけたまま腐りもせず、眠ったような死に顔だったそうでございます。浜では三島神社の神威と恐れて、いたく丁重に扱ったそうでございます」
与五郎の脳裏に夏の船戦の様子が蘇った。あの生温かい、不穏な風を頬に感じた気がした。
どこの浜だ、とも問わなかった。そんな噂話だけでいまさら夏の合戦の功が認められるはずもない。だが、「鼬」と侮蔑されたことで葬られ、与五郎自身ですら忘れかけていた無謀な組み打ちの行き着いた先が、いまになって明らかになった。その意味は小さくなかった。腹の底にある屈辱のいくらかが、水のように軽くなった気がした。
急に森が切れた。
右手が崖になっていて、眼下には大内勢の陣が一望できた。湾内におびただしい数の軍船が並び、それぞれの焚く篝火が波間に映り込んでいて、夜の底はきらめきに満ちていた。船の数は軽く百を越える。まるでどこかの町がまるごと浦に移ってきたかのようだった。ふみは感嘆の声をあげて左右を見渡した。あまりの壮観のためか、軽く体を震わせた。
「あの、ひときわ大きな船は何ですか?」
ふみが指さしたのは、牧野の船から見て湾の対岸にある船だ。ちょうど湾の最奥部に停泊していて、大きな船体が闇の中にうずくまる獣か何かのように見えた。
「船大将の小原様の御座船だ」
与五郎の声に誇りが混じった。
櫓の数は八十丁。乗り込む船武者は四十を下らない。それぞれが弓を握り、巨大な箱型に造られた矢倉の矢狭間から睨みをきかすのだから、海に浮かぶ砦に等しい。器量人と名高い大内義隆の威容を表すにふさわしい船である。このような巨船、三島勢には一隻もないに違いない。
ふみはじっと船を見つめていた。崖下から吹き上げた夜風が前髪を乱しても、ふみは凝視をやめなかったが、やがて着物の袖で口元を押さえた。そのとき、眉がわずかに歪んで、ふみの表情に陰が差した。
「また、たくさん人が死ぬのですね」
口元を押さえたまま、ふみが言った。顔はまだ大将船を向いている。死人を悼む巫女の心が口をついて出たのだろうか。だが、それに応えるにしても、与五郎は合戦へと向かう侍でしかなかった。
「死ぬ。当たり前のことだ」
与五郎が言うと、ふみは瞼をきつく閉じた。神仏に何事かを必死で祈っているかのように、与五郎には見えた。
「だが、生きる、と言い表すこともできるかもしれん」
ふみが振り向き、与五郎を見た。澄んだ瞳だった。
「父がよく言っていた。船武者は合戦を前にして一度死ぬものだ、と。荘に残してきた幼い子供のことが気にかかるとか、妻のことが恋しいとか、そのような雑念はまるごと捨て去って、ただ合戦のことだけで体を満たす。すると、生が傍らからすっと離れる。一度死ぬ。死んでしまえば、流れ矢に当たるとか、敵に斬られるとか、そのようなものはただの理由でしかなくなるから、主人への奉公に専念できるのだ。合戦が終われば、生が傍らに戻ってくる。だから、合戦を機に侍は生き返る、とも言える」
聞いているうちに、ふみの瞳が曇った。そのようなこと、と唇が震える。
「ただの巫女には分かりません。だって、与五郎様もこうして目の前に生きていらっしゃるのに」
「おれも同じだ。いや、父のような覚悟にはほど遠いが、しかし命を惜しむ気持ちのないことには変わりない。まず、手柄だ。今度の合戦では是が非でも手柄がいる」
空には銀砂を撒いたように、無数の星があった。空気は秋の深まりを知らせるように冷たく、そのせいで星はいっそう強く輝いている。雲はどこにもない。やはり数日は晴天が続きそうだった。
「物見に見つかると面倒だ。行こう」
「お待ちください」
そう言うと、ふみは素早く与五郎の左手を取った。手の甲を上にして胸の前まで持ってくると、ふみはふっと息を吐きかけた。それから人差し指を当てると、何かの文様を描いた。
「巫女衆に伝わるまじないです。死者が甦るよう、願を掛けるものです。わたしのような未熟な巫女では験は現れないかもしれませんが」
そう言って、ふみは右手で与五郎の手の甲を三度ばかり摩った。温かい手だった。
「どうか、ご無事で」
強い日差しが降り注いでいる。日の光は波間からも返ってきて船上の船武者たちを照らしたが、夏のような苛烈は失われていて、鎧の下には汗も浮かない。風がそよげば、冷たさすら感じた。与五郎は弓を握り通しで痺れ始めていた左腕を伸ばしながら、波間の先に目をやった。
遠くに緑の島陰が霞むように見えている。大三島である。周囲の島々よりも一回りも二回りも大きく、山があり川が流れ、その川の水を頼りに田も蓄えられているという。豊かな島だ、と牧野から聞いていた。
手の届くところに、大三島が見えている。しかし、与五郎たちは待っていた。牧野も腕を組んで島の方を見つめたまま、待っている。周りの軍船も櫓の動きを止めたまま、やはり待っていた。
「ちッ。陰気な奴らだ。早く動きやがれ」
源助が悪態をついた。誰もうなずいたりしないが、気持ちは同じだったに違いない。与五郎も無意識に太刀の柄を触っていたのは、やはり焦れているからだった。
島の手前の海に、三島勢が船団を組んで立ちふさがっているのだ。
船影が現れたのは昼前だった。だが、敵は矢頃まで漕ぎ寄せてくるでもなく、整然と陣形を組んだまま動かない。太鼓の音一つ聞こえてこないのである。
船大将は敵の動向を訝しんだようだった。こちらが陣形を整え終わった後も、「進め」の下知は来ない。三島勢と矢も届かない距離で対峙したまま、長い時が流れた。
「敵の大将は、あの女だろう」
と誰かがつぶやいた。応える者はいない。重苦しい空気が船内に漂いつつあった。与五郎は噂に聞いただけだが、夏の島での敗戦はいまでも船武者たちの苦い記憶になっているようだった。
「何を仕掛けてくるか分からんぞ。我らをここに釘付けにしておいて、背後から襲いかかるつもりかも」
「胡乱なことを言うな」
気弱な声を牧野が叱りつけた。
「敵の兵は少ない。寡兵をさらに二つに分けたところで、策にはならぬ。それぞれの敵をさらに潰しやすくなるだけの話だ。我らの優位に変わりはない。慌てることはないのだ」
牧野の声は落ち着いていた。叱られた男は頭を垂れて、それからは私語をする者はいなかったが、船内の重苦しい空気は消えなかった。すでに日は西に傾き始めている。このままでは一矢も交わすことなく、夜になってしまうのではないか。
敵の意図は何だろう、と与五郎は思案を巡らせた。敵は潮流れが変わるのを待っているのだろうか。昼頃まで大三島へと勢いよく流れていた潮は、いまは緩やかな流れに変わっている。もうじき逆に大三島から流れる潮に変わるだろう。その潮流れに乗って、敵は攻め寄せるつもりだろうか。
だが、潮の順逆が船戦の趨勢にそこまで影響を及ぼすとは思えなかった。敵が、柴と油を満載して火を付けた火船を順潮に合わせて繰り出せば厄介だが、防ぐ手段はいくらでもある。あるいは、夏の船戦のときのように、一筋の道のような特殊な潮が現れるのを待っているのだろうか。
それとも、風か。いまは無風に近いが、もうじき追い風になるのを敵は知っていて、それを待っているのだろうか。
そう思ったところで、与五郎は自分の考えに不安が入り込み始めていることに気がついた。弓の弦に触れ、軽く鳴らす。ただの射手があれこれと考えても仕方のないことだった。進退の下知は船大将の一存であるし、船武者は船頭の手足である。夏の失態を繰り返すな、と与五郎は自身に言い聞かせた。
「来たぞッ」
不意に叫びがあがった。与五郎が顔をあげた。赤みを帯びた日差しを受けながら、敵の船が進み始めている。船太鼓の音が不気味に響いてくる。すると、本陣から法螺貝の音が尾を引いて走った。
「よし、かかれぇ」
牧野が指図用の竹棒を振り上げる。周囲の軍船も船太鼓を鳴らし、船団は一斉に進んだ。
先ほどまでの消極的な対峙が嘘のように、激しい戦になった。敵は相変わらずの巧みな操船をいかして、ぐいぐいと漕ぎ寄せてきた。矢頃に入るや、敵の船で不気味な弦鳴りがした。空に黒い影が躍り出たかと思うと、矢の雨が降り注ぐ。与五郎の周りでも、何人かが矢に貫かれて倒れた。
敵は矢継ぎも速い。息つく暇もなく、新たな矢の群が船を襲う。さらに次の矢の羽根が鳴る。与五郎は二矢ほど射返したものの、敵の矢勢に押されてろくに見定めもせずに射たので、敵船に届いたかどうかも定かではない。
「どんどん射ろ。もっとだ。矢の数で敵を圧倒しろ」
牧野の指図に、船武者たちが喚声をあげて応えた。与五郎も右手で矢をまさぐる。それ、それ、と牧野が声を張り上げるうちに、矢数が敵を上回り始めた。三島勢はやはり寡兵だ。
妙だな、と思いながら与五郎は三島の兵の動きを目で追った。絶え間なく矢を放ちながら、しかし頭は冷たく冴えていた。
船上の敵が一人、また一人と倒れていく。矢戦での敵の不利は明らかだった。なのに、敵は矢戦を切り上げる気配がない。
「そうか、奴ら……」
牧野が手のひらを竹棒で打った。
「島攻めの戦で勝敗を決するつもりなのだ。船戦に繰り出した兵はあくまで捨て石。我らの兵をいくらかでも削ればそれで良し、という魂胆だ。だから、炮録も出さない」
牧野の言う通りだった。夏の合戦に倣うなら、三島勢は矢で敵を射すくめた後に炮録船を繰り出してくるはずだった。だが、炮録船は出てこない。敵の船の背後にも、それらしき船影はなかった。
「自ら血戦する型破りの戦法を得意としても、三島の将は女だ。軍船など乗ったこともあるまい。にわか仕込みの兵法で采配をとったところで、結果は見えている。だから、奴らは船戦を捨てたのだ」
そのとき、敵が「おお」と声を揃えて叫んだ。
顔を向けると、敵の船太鼓が一斉に早調子を刻むのが聞こえた。尖った船首が波をかき分け始めると、敵の船団は見る間に船足を上げた。矢戦に応じていた敵が、そのまま漕ぎ寄せて斬り込みに移ろうとしていた。
敵は独特の三段構えの戦法をさえ捨てたのだ、と与五郎は思った。炮録船の姿はなく、矢船と武者船の区別もない。船を分けるほどの兵力の余裕すら失ったのかも知れない。それでも厳しく統率を守りながら、島へと攻め寄せる大内勢に強固に抵抗する構えは崩さない。まさに捨て石の戦い方だ。
本陣からは法螺貝の音が順繰りに近づいてきた。進め、の下知である。慎重だった船大将もようやく戦機が満ちたと見たようだった。
「応じるぞ。敵船の一つでも分捕って、手柄をあげろ」
号令一下、ときの声が船内で巻き起こる。太刀を空へ振り上げて、与五郎も声を振り絞った。
西の空が日に焼かれて真っ赤に染まっていた。赤光は波の上を走り、無数の船を横ざまに覆った。高ぶった表情で敵を見据える牧野の顔も、引きつったような源助の顔も赤い。波間も赤く、その向こうから一目散に漕ぎ寄せてくる敵の船団も赤かった。
味方と敵の船が無数に入り乱れた。互いに斬り込む船を求め、食い合うように舷を接し始めた。
牧野の船の正面に進み出たのは、同じくらいの大きさの関船だ。敵船もこちらを相手と認めたらしく、舵をさばいて脇に回り込むような動きでにじり寄る。矢で牽制しながら、牧野の船は一挙に敵船に漕ぎ寄せた。
舷側を接するよりも早く、敵が楯板を蹴倒した。倒れた楯板を橋代わりにして、どっと敵の船武者が押し寄せた。先手を取られて、船上はたちまち凄惨な斬り合いになった。
敵は劣勢とは思えないほど意気盛んだった。なかでも真っ先に斬り込んできた大男の船武者に、与五郎は目を見張った。背丈は与五郎よりも頭一つ分大きい。そして、この男は槍を手にしていた。
敵船への斬り込みに携える武器は各人の得意に任されるものだが、槍はあまり好まれない。狭い船上で扱うには、柄の長さが邪魔になるのだ。ところがこの大男はよほどの鍛錬を積んでいるらしく、船の狭さをものともせず槍を振り回している。瞬く間に味方が槍の穂先にかかり、夕闇に染まる海へと落ちた。
「三島の悪右衛門、村上清右衛門尉とはわしのことだ。貴様等が御島に踏み込むことは許さん。ここで儂とともに死ね」
体の大きさに相応しい大音声だった。名乗りに応じて味方が斬りかかったが、わけもなく太刀を弾き上げられて、喉を貫かれた。返す石突きで隣の味方が頭を殴られた。村上と名乗った大男は船上をぐいぐいと進んだ。その先で太刀を構えていたのは源助である。
源助の背中が小さい。
「手を貸すぞ」
与五郎は太刀を担いで飛び出した。二人掛りならこの難敵を仕留められるとまで考えたわけではなかった。だが、足を止めることはできる。止まれば、牧野が何かしら指図して、斬り合いの形勢をこちらに引き寄せるはずだ。
隣に立って切っ先を村上に向けたとき、源助の目が動いてこちらを盗み見た。一瞬のことだったが、震えるような気配が伝わってきた。
ほとんど無造作とも思える歩みで、村上が近づいて来る。与五郎は踵を矢倉板にぺたりと着け、四肢を柔らかくしたまま、槍が動くのを待った。二間に迫ったとき、村上の足運びは滑るようなものに変わり、巨体が沈み込んだ。野に棲む獣のような俊敏な動きだ。
息を止めて身構える。すると、左側にあった太刀のきらめきが消えた。同時に源助の気配がふっと軽くなる。
待て、と与五郎は叫ぼうとした。だが、それよりも槍の一閃が速い。
身を翻しかけていた源助の脇腹に槍の穂先が食い込んだ。反射的に与五郎は太刀を振り上げて斬りかかったが、村上は素早く槍を引き戻すと、柄を反転させて与五郎の太刀を跳ね上げた。柄を握る手に痺れが走り、足元がふらついた。その間に村上は退きながら腰だめに構え直した。穂先に真新しい血が滴っている。
源助は青白い顔で矢倉板に倒れていた。足が動かないらしい。両手で矢倉板を掻いて、恐ろしい敵から逃れようとしている。だがそれも、流れ出た血で滑るだけだった。
――逃げようとしても。
逃げられるものではない。思いながら、与五郎は太刀を握る手に力を込める。それでも源助は逃げてしまった。村上の凄まじい槍遣いに、四肢の隅々まで威されてしまったのだろう。怯えた兎さながらに源助は走ろうとして、獣の思うがままに狩られてしまったのだ。
いきなり村上の巨体が膨らんだ。間合いを詰められた、と気付いたときには、槍が横薙ぎに右脚を襲う。考えるよりも先に、与五郎は太刀を下げて防ぎの構えを取った。だが、槍を弾いた衝撃が奇妙に柔らかい。
与五郎は敵の罠にはまったことを悟った。
村上が手首を返すと、槍は獲物を捕らえる蛇のように太刀に絡みつく。手に衝撃を感じたときには、もう太刀は巻き上げられて、宙を飛んでいた。村上の槍は上段の位置にある。血に濡れた穂先の真下に、与五郎の命があった。
――逃げられない。
そう思ったとき、与五郎の目に間隙が映った。前だ。振り上げた槍の、その下。巨体を支える両脚の間だ。走りながら、手で短刀を探る。
村上が膝を折り敷いて、与五郎の体ごとその意図を潰そうとした。噛み砕く牙の勢いで迫る膝を、しかし与五郎は背中で滑ってすり抜けた。
空いた左手が何かの感触を捉えた。反射的に掴む。体が滑りながら半回転した。手が別の生き物のように握ったのは、村上の袴だった。
勢いのまま立ち上がると、与五郎は村上の背後にぴたりとついていた。身をよじった村上の眼が、与五郎を見つけた。息を止め、与五郎は短刀を村上の右脇にねじ込んだ。
村上が目を大きく見開いた。それから、夕日に赤く染まった波間の先に顔を向けると、馬がいななくような大声で吼えた。腹が痺れるような声量だった。与五郎は短刀を一段と差し込んで、刃先を返す。堰を切ったように血があふれると、咆哮は次第にかすれ、ついに村上は膝から崩れ落ちた。それでも力を抜けばすぐに難敵が立ち上がりそうな気がした。短刀を固く握り、さらに奥まで突き入れた。
「見ろ。与五郎が敵を返り討ちにしたぞ」
牧野の叫びで、ようやく与五郎はいくらか冷静さを取り戻した。敵を討った、という高揚はいまだない。生き残る手だてをやみくもに探り当てた手応えだけがあった。
「年若の与五郎が敵を討ったのだ。続く勇士は誰だ。牧野の船にもう人はおらんのか」
竹棒を叩いて牧野が囃し立てると、船武者たちは気勢をあげた。太刀を振り上げる。近矢を射込む。敵が一人、また一人と減り、ついに船武者たちは敵の船へと斬り込んだ。
与五郎は岩のように固くなった右手から、指を一本ずつもぎ取るようにして、ようやく短刀を取り出した。何度も右手を握り直して、ようやく指に自由が戻る。顔を上げると、敵の船上は湯が沸騰するような騒乱だ。遅れてなるものか、と短刀を持ち直して歩き出そうとする。
が、腰を強く引かれた。抗おうにも足に力が入らず、仰向けにひっくり返った。牧野の顔が逆さに見えている。髭で覆われた口元がわずかに緩んだ。
「短刀で敵の船に斬り込むつもりか」
言われてはじめて与五郎は太刀のことを思い出した。村上に巻き取られたまま、どこに飛んだかも分からない。急いで体を起こそうとすると、膝が崩れて前のめりに倒れ込んだ。蛙が潰れたような有り様に、今度こそ牧野は声に出して笑った。
「その様子ではとても斬り込めまい。ひとまず休んでおれ」
竹棒の先で矢倉板を突いて、牧野は敵の船へと目を移す。
「それに、手柄は独り占めするものではないぞ。最初に手柄を立てた者は悠然と構えて、他の者の働きを見守れ」
与五郎はただうなずいた。一言も発せなかったのは、牧野の言葉の向こう側に父の姿が匂ったからだった。おれはまだ未熟だ、と思った。だが、何も分からずに走り回った夏の合戦とは、違う。未熟な自身を、与五郎は知っている。
敵船の斬り合いにも終わりが見え始めた。いまや敵はほんの数えるほどしか残っていない。海に落ちた敵も、味方が差し入れる熊手に絡め取られ、次々に首を取られてしまう。悲痛なうめきがそこかしこから聞こえた。
敵の大将を討ち取った、という報せが聞こえたのはそのときである。見れば、少し離れた海の上に大将旗を掲げた三島の船があり、そこに大内の船が三艘も取り付いていた。船上に群れた船武者たちは刀槍を掲げて、天を衝くようなときの声をあげていた。その槍先に、兜首が懸かっている。
日暮れの光にさらされた首は、中年の男のものとみえた。
「見ろ。やはりあの女は、大三島で我らを待ち構えているのだ」
そう言うと、牧野は島の方を睨みつけた。島影は早くも夕闇に溶け込もうとしていた。
「飲め。与五郎、もっと飲め」
溢れんばかりの勢いで、牧野が杯に酒を満たした。口をつけ、一息に飲み干すと、焚き火を囲む船武者たちが力強く手を打った。胃の腑に落ちた酒が溶けて、体中が熱い。
「しかし、なんだあの技は。敵に駆け寄って、股の下に入って」
「そうだ、股下でくるっと回ったと思ったら、もう敵の背後にいた」
「あの豪傑が身動きもできず、短刀で一突きじゃ」
「あんな技も与三郎殿から学んでおったのか」
口々に語り合う。炎の揺らめきを眺めながら、与五郎は「いや、とにかく夢中で」と答えながら左手を撫でた。おまえまで斬られてしもうたと思ったぞ、と年かさの船武者がいうと、皆がどっと笑った。
三島の船団は壊滅した。大将を討たれてもなお戦い続けた船もあったが、それも日が落ちるまでには片付いた。あとは大三島に攻め入るだけである。しかし、夜に敵地に上陸するわけにもいかず、大内勢は昨日陣を敷いた浦に船を返した。朝まで船を停めていた浦だけに、薄闇の中でもとくに混乱はなかった。船大将の御座船が昨日と同じように湾の最奥に入り、牧野の船も昨日と同じ浜に碇を降ろした。
陣を整え終えるとすぐに酒盛りになったのも昨日と同じだ。
「今日の一番手柄は、与五郎だ」
大声でまずそう言うと、牧野は与五郎に杯を持たせた。あの恐るべき槍術を遣う巨漢を、与五郎は一人で仕留めたのだ。誰にも異論はなかった。
肴は誰かが釣り上げてきた大きな鱸だった。焚き火で焼いたものを、手でむしって食べた。酒は注がれるままに、次々と口に運んだ。
もう鼬とは呼べんな、と誰かが言った。敵の勇士を討ち取ったのだ。一人前の船武者だ。そうだ。鼬なものか。さざめきのような話し声を制したのは、牧野だった。
「そうではなかろう」
焚き火を囲んだ皆の視線が集まった。牧野は咳払いして、いや一人前の船武者だというのは間違いないがな、と言った。
「親父の与三郎があの槍遣いの船武者に立ち向かっていたら、と考えていた。与三郎は豪傑だった。もちろん、あの敵にも勝っただろう。だが、おそらく剛力を存分にいかし、あの槍を弾き飛ばして真っ正面から斬り下げるような勝ち方をしたはずだ。
だが、与五郎は親父とは違う。違うが、劣っているわけではない。与五郎は剛力の代わりに鼬にたとえられる体術がある。今日、手柄をあげたのはその才を発揮したからだ。思い起こせば夏の合戦でも与五郎は、行き違う敵船に一人飛び移って、船上を駆けて敵将にまでたどり着いたのだ。確かに先走りには違いないが、並外れた胆力と、優れた体術を持つ船武者だという証ではないか」
言葉を切ると、牧野は焚き火を囲む面々を順に眺めた。
「鼬の与五郎。その呼び名は、はたして蔑みか。与五郎自身がその問いに答えを出した。鼬の武芸がどれほどのものか、存分に見せつけたのだ。痛快。いやまさしく痛快だ」
杯の酒をうまそうに飲み干す牧野の横顔を、与五郎は呆然と見ていた。腹の底に渦巻いていた屈辱が、いまこの瞬間に跡形もなく消え去ったのを感じた。すると、空になった腹の底から沸き立つような高揚が押し寄せた。一気に酔いが回ったのか、頭がふらついてしょうがない。
それでも、与五郎は心のうちの小さな部分が重く沈んでいるのを感じていた。石のように固いその部分には、源助の死に顔が張り付いている。
源助の脇腹を貫いた槍は内臓まで達していて、血は止まらなかった。次第に顔色は骨のように白くなっていった。源助は手近の船武者の袖を握り、「海に、捨てないでくれ。頼む。陸へ、陸へ戻してくれ」と繰り返しつぶやいた。常の粗暴ささえもあの難敵に根こそぎ剥ぎ取られて、源助の手元には子供のような嗚咽が残るばかりだった。その声もやがて枯れて、浦に戻る船上で息絶えたのである。
「ご活躍でしたのね」
気付くと、女が隣に座っていた。小袖の上に白衣を着重ねた、十ほども歳上の女である。顔を上げると、焚き火の回りに昨日と同じように漂泊の巫女たちが忍び寄ったのが分かった。
隣の女が笑いかけながら酒器を軽く傾ける。与五郎は自然に杯を差し出し、酌を受けた。注ぎ終わると、女は与五郎の顔をのぞき込むようにして笑った。無理矢理に口角を持ち上げたようなその表情を眺めながら、与五郎は杯の酒を舐める。苛立ちがかすかに動き始めた。
牧野がよく通る声で女に唄を催促している。年かさの船武者ははやくも女の肩に腕を置いている。
急に、隣の女が甲高い声で何かを言った。与五郎の機嫌をとろうとして何か軽口を叩いたらしい。与五郎は杯を飲み干して、杯を差し出した。女は嬉しそうに酒を注いだ。
焚き火の向かい側にいた女が立ち上がった。それから手を打って、勝ち戦を祝う芸を披露したい、と言った。巫女たちは立ち上がり、笛や太鼓、鉦などの楽器をそれぞれ手にして浜の暗がりへと歩くと、三日月型に並んで座った。
最初に澄んだ笛の音がした。
穏やかな川のせせらぎのような旋律だった。それが闇夜に尾を引いて流れると、新たな笛が音を重ねる。鉦や太鼓も加わって、旋律はすぐに豪奢な合奏になった。
船武者たちは声を出すこともなく、音曲に聞き入っている。与五郎も杯に口をつけようとした姿勢のまま、闇を飾る音をただ耳で追った。
合奏の豪奢さがいよいよ極まったとみえたとき、浜辺に風変わりな装いをした女が進み出た。白い袴に白い水干。腰に小太刀を帯びて白扇を持った姿は、一見して舞いを専らにする白拍子のようでもある。だが異様なことに、女の顔は白塗りの面に隠されていた。そのせいで女の姿は闇の中におぼろ気に浮き上がっているのである。
ふみだ、と与五郎は気付いた。水干と袴と表情の無い面と、白の装いばかりが目を惹くが、よく目を凝らせば、手首や足先それに首回りの肌の黒さに見覚えがある。背丈も歩き方も、やはりふみのものだ。
いつの間にかふみの歩みは、合奏の調子と重なっていた。そして、右手で扇を差し上げつつ静かな足取りで五歩進んだところで、右足を大きく上げて力強く踏み下ろし、ふみは舞いを始めた。
強く足踏みしたかと思うと、両腕を広げて背を反らせる。激しい舞いだ。荘の村祭りで披露される静謐な舞いとはまったく違う。熱狂というのに相応しい。与五郎は瞬きをするのも忘れて、ふみの舞いに見入った。
それにしてもなんという力強い足踏みだろう。浜は粒の細かい砂地であるから、いくら力を込めて踏んだころで、乾いた小さな音がするだけなのだ。ふみが身をしならせて足を地に打ち付けると、乾いた音がするのは同じだが、同時に与五郎はすぐ傍で足を踏み鳴らしたような振動を感じた。小さな足音が腹に響いた。とん、ととんと足踏みが続くうちに、腹の底がうねるように動いた気がして、与五郎は思わず立ち上がった。
焚き火を囲んでいた船武者たちも同じように感じたのだろう。一人二人と立ち上がり始めた。牧野などは立ち上がっただけでは飽き足らないのか、手で拍子を取りながら、ふみの足踏みを追うように自らも足を鳴らしている。
牧野の船武者たちだけではない。賑やかな音曲が浦中に響き渡ったのか、浜辺には他の船の武者たちもびっしりと集まっていた。船上の斬り合いでは狂ったような雄叫びをあげて血刀を振るう男たちが、放心したようにふみの舞いを目で追う。誰かが手拍子を始めると、何人かが恐る恐るふみを真似て足踏みを始めた。不揃いな足音は瞬く間に増えて、やがて大蛇が這うような地響きなった。
ふみが大きく背を反らせた。
胸を空へ向け、後ろ髪が地に着きそうなほど上体を倒した後、腰よりも高く振り上げた右足を強く踏み下げる。不揃いな船武者たちの足踏みに、正しい調子を教えるような動きだった。
もう一度ふみが背を反らす。船武者たちがふみの足踏みを待つ。ふみが足を下ろすと、浜全体が大太鼓になったかのように足踏みが和した。
もう一度。さらにもう一度。ふみの舞いが指図するまま、船武者たちの足踏みが続く。
自らも音の一部になりながら、与五郎は昨夜のふみの悲しげな顔を思い出していた。人がたくさん死ぬのですね、とふみは口にしたのだ。
――ならば、これは弔いに違いない。
与五郎は思い、いっそう強く足を鳴らした。生が傍らに戻ることなく合戦場で命を落とした者たちへ、ふみは舞いを捧げているのだ。いまだ中空に漂う死者の魂を、慰め、称え、熱狂の中で旅立ちを見送ろうとしている。そのなかには、源助の光もまた含まれているに違いなかった。
与五郎は叫んだ。いや雄叫びの方が与五郎の中に生まれて、自ら口をついて出たのかもしれない。すぐに誰かが続き、雄叫びはやがて浜を押し包むような大音声となった。
立ち昇る巨大な炎のような喚声の中、ふみは手足を折りたたんで砂浜にうずくまった。翻った袖がふわりと宙を泳ぎ、力を失って地に垂れたとき、音曲が止んだ。それで、ふみの舞いは終わった。
浜辺が静まり返ったのはほんの束の間のことで、ふみが立ち上がり、頭を垂れると、見物の人だかりが喝采にどっと沸いた。船武者たちの熱狂は醒めない。別の女が進み出て、賑やかな音曲とともに新たな舞いを始めると、一段と大きな拍手で迎えた。だが与五郎は一人、熱狂の輪を抜け出した。舞い終わったふみが暗い波打ち際へと歩き去るのを見たのである。
「見事な舞いだった」
近づいて呼びかける。白面のままで振り返ったが、与五郎の姿を認めると、静かに面を外した。ふみは露草の花が綻ぶように慎ましく微笑んでいた。頬には舞いの興奮が赤く残っていて、浅黒い肌が艶めいて見えた。
「おかしな奴だ。あれほどの舞いができるのに、昨日は何を恥じらっていたのだ」
「お侍様方の目にどのように映るものか、と考え込んでしまって」
白い面を右手で弄びながら、ふみは言った。
「でも、今日この面を付けたときに覚悟が決まりました」
遠目にはただの白い面としか見えなかったが、改めて見てみるとどうやら女性をかたどったもののようだった。卵の殻のように滑らかな面立ちは表情に乏しく、眼の部分は切れ長の穴が穿たれているだけ。清らかで、船武者たちの荒々しい視線を遮るのに相応しい面だった。
ふみは背を向けて渚へと歩いた。戦陣が恐ろしい、と震えていた昨夜のふみが、遠い昔のことのように思えた。いまふみは右足をするりと伸ばして、足首に波を遊ばせている。後ろ姿からは、舞いの技で荒々しい武者たちを熱狂させた自負が、陽炎のように薄く立ち昇っているような気がした。もう未熟な巫女などではない。
――だが、おれも。
もう一人前の船武者だ。そう思ったとき、与五郎の足は自然にふみを追った。ふみは軽く後ろに目をやっただけで振り返りはせず、遠くのかがり火の明かりを映した波間に顔を向けている。その襟足の意外な白さに、与五郎の眼が吸い寄せられた。
誘われるように近づくと、潮風のなかに女の体臭を感じた。桃の実に似た香りだ。与五郎が波を踏んだ音で、ようやくふみは振り返った。唇が薄く開かれている。
明日からは島攻めだ。船武者たちが恐れるあの女武者もいよいよ姿を現す。敵はまた地の利をいかして変幻自在に戦うだろう。今日運良く難敵を退けて命を拾ったように、明日も幸運に恵まれるかは分からなかった。すでに死人だと固めた覚悟のまま、草むらに倒れるかも知れない。
目の前にいるふみとも、明日は会えるか分からないのだ。そう思ったとき、胸の奥が震えるのを感じた。すぐに刺すような痛みに変わる。耐えかねたように、与五郎はさらにふみに近寄った。
手を伸ばし、ためらいがちにふみの右手を握ると、身を固くする気配が伝わってきた。何かを言うべきだ、と与五郎は思った。だが口を開いてみたところで、言葉は出てこない。思いをまとめるには、ふみの体が近過ぎた。胸先が触れそうな距離に、ふみの頭がある。
与五郎はふみの手を引き寄せた。
ふみの体は意外な軽さで懐深くに飛び込んできた。黒い前髪が鼻先で揺れたかと思うと、右手に痛みが走る。
「死にたくなければ、波の下に隠れておれ」
押し殺した声だった。
捻り上げられた手首に容赦のない力が加えられる。体が浮き上がり、与五郎は天地を見失って頭から海に突っ込んだ。投げ飛ばされたのだと気付いたのは、必死に振り回した手が浅瀬の底を探り当ててからだった。
立ち上がると、ふみはもう砂浜の中ほどまで走り去っていた。制止しようと与五郎が手を伸ばしかけたとき、凄まじい爆発の音が背後から押し寄せた。
音に押されたように、与五郎は波の中に倒れ込んだ。鼻に入った海水にむせながら振り返ると、湾の反対側で火の手が上がった。
御座船が砕け、燃えていた。
与五郎は息をするのも忘れた。何匹もの大蛇が絡み合うような炎に巻かれて、巨船が焼け落ちようとしていた。さらに数度の轟音が連なり、爆風が辺りの船をも巻き込んだ。穏やかな入り江の波が、いたるとこで燃える炎を夕暮れ時のように映している。
炮録に違いない。与五郎は茫然として、ただ炎を見つめていた。一瞬のうちに御座船が薙ぎ払われたのだ。三島衆が得意とするあの火術に間違いはない。だがなぜ、と思ったとき、喚声が浜の背後の草原から湧き起り、黒い影の群れが飛び出した。
影は突風のように、浜に集った船武者たちに襲いかかった。白刃がそこかしこで閃いて、船武者たちが次々と斬り伏せられた。闇の中で幾多の悲鳴が重なる。言葉にならない叫びが新たな混乱を呼び、右往左往するうちに船武者たちは黒い影に飲まれていく。
戦いというにはあまりに一方的だった。与五郎は波に足を洗われながら、うめきを噛み殺した。
昼の船戦は単にこちらの兵力を削るための捨て石ではなかった。この夜襲のため、大内勢を一日足止めするための捨て石だったのだ。
「巫女たちを一人として死なせるな」
騒然とした浜辺に、ふみの声が凛と響いた。
「敵の陣に最初に踏み入ったのは巫女たちぞ。ただの一人も死なせるな」
巫女たちは笛や太鼓を放り出し、浦の端の方へと一目散に逃げていく。しんがりで巫女たちを斬り合いから守るのは、小太刀を抜いたふみだ。
いや、ふみではない。与五郎はその名を記憶の中に探った。夏の大三島での合戦で、大内の船武者をさんざん苦しめた女。先頭に立って血戦することで、寡兵を手足のように操った型破りの総大将。
――名は確か、鶴。
夏の合戦と同じではないか、と与五郎は思った。鶴は手勢を率いて真っ先に大内の陣へ踏み込んだのだ。ただし、今回の手勢は唄と踊りを生業にする巫女たちだ。大内の陣の様子を探ることが目的だったのだ。
崩れ落ちそうになるのを懸命にこらえた。忍び込んだ敵の将に、掌を指すように陣の様子を示したのは他の誰でもない。与五郎自身だ。
海の上に新たな火の手があがった。敵は湾の入り口から火船を流しているようだった。無数の船が松明のように燃えながら、風に押されて湾内を進んでいる。停泊した大内の船とあちこちで衝突し、その度に炎がいっそう大きく巻き起こった。牧野の船も、いまに炎に巻き取られて、焼け落ちてしまうだろう。
与五郎は腰の太刀を鞘ごと引き抜いた。抜刀すると、左手に残った鞘を波間に放り捨てた。もはや無用のものだ、と思った。
ふみという名乗りは偽りだった。未熟な巫女というのも偽りだ。戦陣の様子に怯えるはずがない。茂みに隠れたのは船武者に怖れをなしたのではなく、陣の様子を探るためだ。あの見事な舞いの最中も、大内の船武者たちの壊滅をひたすら願っていたに違いない。
ならば、あのまじないも偽りだったのか。
胸がいっそう激しく鳴った。与五郎の無事を祈って左手に施した、あの呪いである。身を案じるような口ぶりの裏で、兄の仇と知った与五郎を呪殺でもしようとしていたのか。だがそれも迂遠な話だ。仇を取るだけなら、崖下に突き落とせば済んだはず。
あの女は、眼下に広がった大内の陣を隅々まで眺めて、この夜襲の絵図を描いた。御座船を繋いだ場所を知って、炮録を用いて襲う算段をつけた。三島の船団を捨て石にして、大内勢を足止めした。槍遣いの村上に死ねと命じたのも、あの女に違いない。そして、勝ち戦の気分を盛り上げるような舞いを見せて、浜に船武者たちの耳目を集めた。悪鬼のような策略だ。
ならば左手に施したあの呪いも、策の中に組み込まれていたはずだ。それは何だ。
心が猛り狂っている。与五郎は口元を引き結んでそれを押し込めた。
浦の端の波打ち際に小早船が何艘か見えた。三島の兵が漕ぎ寄せたらしい。かがり火の明かりを頼りに、巫女たちが船へと乗り込んでいた。その周りを守るのは少数の三島の兵と、小太刀を構えた鶴だ。
与五郎は無言で駆け出した。
一番手前にいた敵に、担ぎ上げた太刀を体ごとぶつけるようにして斬りかかる。あまりの勢いに、敵はよろめき、与五郎の斬撃を受け止めた太刀を取り落とした。与五郎はさらに踏み込み、無造作に太刀を切り返して敵の顔面に叩きつける。悲鳴があがった。与五郎は走り、もう次の敵にかかっている。
「鶴姫様に近づけるな」
鋭い叫びがあがった。腰を落として太刀を構えた堅固な敵が立ち塞がる。その向こう側で、鶴は数人の武者に守られて立っていた。目が合ったが、表情は動かない。舞いの白面のような冷たさを保ったまま、鶴はおもむろに弓を構えた。
与五郎は足を止めることなく太刀を構えた敵に近づいた。敵が斬撃の気配を見せたその瞬間に、いきなり太刀を投げつけた。驚いた敵が宙を飛んだ太刀を弾く。瞬きをするほどの隙に、与五郎は敵の脇を抜けた。
短刀を抜く。もはや彼我を遮るものはない。そのとき、静かだった鶴の表情がかすかに揺らいだ。血の気が引いたかのように、頬はやや青白い。弓を引き絞りながらも、目元が細かく揺れている。白面のようだった冷たさがわずかに解けて、その下で感情が動くのを確かに見た。
与五郎は名を呼ぼうとした。だが、どちらの名を呼べばいいのか。迷う間に、間合いは一段と迫った。
ふと、鶴は目を閉じた。軽い瞬きだった。だが次に瞼を開いたとき、目元のためらいは消えていて、表情はもとの冷たさを取り戻していた。
おれはこの女を討つのか。切っ先を向けるように、与五郎は自問した。確たる答えはない。激情だけが真っ赤に焼いた鉄のように胸の中で光っている。それとも返り討ちにされるのか。かすかな思案は、疾走する間に脆く剥がれ落ちた。船を焼かれ、船武者たちの多くが斬り捨てられたのだ。背後には灰しかない。前へと駆けるしかなかった。
十間に迫ったとき、弦が低く鳴った。
与五郎は矢を左手で受けた。血にまみれた矢尻が手の甲に突き出たが、見向きもせずに短刀を振り上げる。獣のような唸り声が口から漏れ出た。
二の矢が与五郎の首筋を裂いた。
鶴はさらに次の矢を継いだ。しかし与五郎の体は見る間に均衡を失い、足をもつれさせて倒れた。与五郎の手足がわずかに砂を掻くように動いたが、ほんの一瞬のことで、海老のように体を曲げたまま止まった。流れ出た血が砂地に染み込み、火灯りを赤黒く反射していた。
鶴はようやく弓を下ろした。
ほんの五歩ほどの距離。その先で与五郎は息絶えていた。短刀は倒れた拍子に転げ落ち、半ばまで砂に埋もれている。
一人の若武者が進み出た。鶴の前で平伏すると、腰の短刀を抜いた。倒れ伏したままの与五郎に近づくと、髪を掴んで刃先を首に押し当てる。
鶴の血相が変わった。
「止めよッ」
鉄鞭で一打ちするような激しさだった。あまりの剣幕に若武者は飛びのいて平伏し、あたりの三島の兵も動きを止めた。自らの声の鋭さに戸惑ったように、鶴は束の間視線をさまよわせた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「雑兵の首など捨て置け。それよりも大内の兵を一人でも討ち取れ。徹底的に叩け。さもなくば奴ら、またすぐに大三島攻めの陣を立てるぞ」
火船は湾の中央にまで流れ込み、次々と大内の軍船が火に飲み込まれた。浜に殺到した三島の兵は大内勢をどんどんと押し込み、いまや戦の叫喚はずっと先のほうでぼんやりと聞こえるばかりだった。
不意に鶴は弓を握った手を放した。一喝して顔に浮き出た血の色はもう肌の下に沈んでいる。青白い顔で動かない与五郎を見下ろしていたが、潮風が焼けた臭いを運ぶと顔を上げ、「鎧を」と供回りの武者に言った。戦場は浜の奥に移りつつあったが、まだ戦いが収まる気配はない。
「兄も、首までは取られなかった」
鎧櫃を待つ間に、鶴の唇がかすかに動いた。声はたちまち焦げ臭い風に巻き取られ、遠い叫喚が耳鳴りのように響くばかりだった。
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